チャベスの移住地に行く清原かつをはじめとする五人は、アルゼンチンのブエノスアイレスから、空路、四時間あまりを費やし、ポサダスの空港に着いた。
ポサダスは、まだアルゼンチンで、ここからパラナ川を渡ると、パラグアイになる。
支部長の宮地進七をはじめ、十人ほどのパラグアイのメンバーが、ポサダスの空港まで迎えに来てくれていた。
メンバーのなかには、ブラジル国境のイグアス移住地から、数百キロの道のりを四日がかりで駆けつけた、谷川郁夫という班長もいた。
一行は、メンバーの求道の息吹に、心洗われる思いがした。
空港からは、車で船着き場に行き、二十分ほどランチに乗って対岸に着いた。パラグアイのエンカルナシオンである。
ここで打ち合わせを行った。その時、一人の青年が清原に言った。
「お願いがあります。実は、六十キロほど先のピラポという移住地に、四十世帯ほどのメンバーがおります。その人たちは、今夜の宮地支部長宅での指導会に、トラックで来ることになっていましたが、大雨だったために、車がスリップしてしまうので、出発できないでいます。ジープなら行けると思いますので、どなたか、行ってもらえないでしょうか」
すぐに、春木征一郎の妻で副婦人部長の春木文子と、男子部の幹部が行くことになった。
午後三時ごろ、清原たちはマイクロバスでチャベスへ、春木文子らはジープでピラポへ出発した。
清原の乗ったマイクロバスは、ぬかるんだ道に車輪をとられ、何度もスリップした。途中、皆で車を押すこともあった。
チャベスの宮地支部長の家に着いたのは、夕刻であった。
辺りには、農地と森が広がり、ところどころに小屋のような家が立っていた。
清原は、ここにも同志がいて、懸命に学会活動に励んでいることに、不思議な思いがしてならなかった。
“これが御書に仰せの「地涌の義」なんだ。まさに、世界広布の時は来ているんだ”
一方、ジープでピラポ移住地に向かった春木文子たちは、ぬかるみの道をひた走った。
それでも、あまりスピードを出すことができず、到着したのは、午後九時過ぎであった。
ところが、ピラポのメンバーは、幹部が来てくれるようになったとは知らずに、危険を覚悟でチャベスの宮地の家に出発してしまったのである。
春木たちは、急いで引き返したが、チャベスに着いたのは、午前一時を回っていた。
宮地の家では、午後七時半から指導会が開かれた。会場は、百人を超す参加者でいっぱいであった。ランプの明かりに照らされての指導会である。
ここでは、メンバーから質問を受けた。
どの質問にも、苦悩と心の葛藤が滲み出ていた。
農業が軌道に乗らず、かさむ借金に苦しみながら、なんとか活路を見いだそうと、必死な人もいた。病の苦しみを、悲鳴にも似た思いで語る人もいた。
清原たちは、懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。
三歳ぐらいの男の子を抱えた老婦人が尋ねた。
「この子は孫ですが、生まれつき目が見えないんです。信心を頑張れば、この子の目も、見えるようになりますか」
老婦人の一家は、移住地の人たちに、仏法のすばらしさを訴え、布教に励んできた。ところが、目の不自由な子どもが生まれたことから、「なんで学会員が、そんなことになるんだ」と、批判を浴びせられていたのである。
家族は、針の筵(むしろ)に座るような、いたたまれぬ気持ちで日々を過ごしてきた。
もとより、近くには大病院もなく、診察してもらうこともできない。悲嘆に暮れ果てての質問であった。
皆、黙り込んで、清原の言葉を待った。
彼女は断言した。
「明確なことが一つだけあります。それは、強盛に信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれるということです。このお子さんが、生涯、信心を貫けるように、育ててください。信心をして生まれてきた子供に、使命のない人はいません。その使命を自覚するならば、必ず最高の人生を送ることができます」
この指導が、世間に引け目を感じ、信心に一抹の不安をいだいていた、この家族の心の闇を、打ち破ったのである。
清原に指導を受けてからというもの、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになった。そして、家族も、その子どもの幸せを願い、真剣に信心に励み、団結が生まれていったのである
また、ある壮年は、懇願するように言った。
「山本先生は、パラグアイにも来てくださるだろうか……」
「祈り抜いていくなら、必ず、先生は来てくださいます。また、皆さんの思いを、すぐに先生にお伝えします。先生をお呼びすることを目標に、頑張ろうではありませんか」
質問は深夜まで続いた。その夜は、チャベス以外の移住地から来たメンバーは、宮地の家や近くの同志の家に分宿した。
翌朝、皆で勤行したあと、個人指導の時間がもたれ、次いで、教学試験が行われた。
派遣された幹部が感動したのは、大白蓮華や聖教新聞が一、二部しかないために、掲載された御書の講義などを、皆がノートに写し、研鑽していたことであった。
しかも、そうした悪条件であるにもかかわらず、皆、実によく勉強しているのである。
派遣幹部たちは、いかなる環境条件であろうが、求道の心があれば、教学を研鑽することはできるのだとの実感を深くした。
清原たちがチャベスを後にしたのは、三月六日の午後四時過ぎであった。
木々の生い茂る道を、マイクロバスに揺られながら派遣幹部たちは思った。
“もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けていただろうか。皆に指導はしてきたが、学ぶべきは自分たちの方ではないのか……”
信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。
また、世界のいずこであろうと、今、自分のいる場所が、広宣流布の戦場であり、最高の仏道修行の道場であり、同時に、そこが常寂光土となるのである。
メンバーと山本伸一の念願が成就し、彼のパラグアイ訪問が実現するのは、一九九三年(平成五年)のことである。
それは名画のような、永遠に輝く、感動的な出会いとなった。
この訪問で、伸一は大統領、外相らと会見。そして、パラグアイ政府から、彼の世界平和への貢献を讃え、「国家功労大十字勲章」が贈られたのである。
新・人間革命 第11巻「開墾」の章 p.176-182