質問に答えながら、伸一は、空港に出迎えてくれたメンバーのなかで、まだホテルに到着していない友がいることが、気になって仕方なかった。
「まだ、来ない人がいるけど、どうしたんだろう」
彼は話しながら、何度か、こう繰り返した。
質問が出尽くしたころ、バタンと大きな音がして、部屋のドアが開いた。皆が一斉に振り向いた。そこには、裸足で、片手にハイヒールを持ち、もう一方の手に重そうな大型のテープレコーダーを持った、やや大柄な日系婦人が立っていた。彼女は、テープレコーダーを床に置くと、喘ぐように肩で大きく息をした。顔中に汗が噴き出していた。
「どうしたんですか」
伸一が尋ねると、婦人は、荒く息をしながら答えた。
「すいません。空港からここに来る途中、皆さんの車を見失い、道に迷ってしまったもので……」
「そうですか。ご苦労でしたね。心配していたんですよ」
伸一は、婦人に笑顔を向けた。
彼女の名前は、タエコ・グッドマンといった。前日、モンタナ州を車で出発して、雪のロッキー山脈を越え、早朝、ようやく空港に着いて一行を出迎えたのである。
しかし、ホテルに向かう途中、一行の車を見失ってしまった。シアトルの地理がわからない彼女は、ホテルを探すのに、かなり時間を費やしてしまったのだ。苦心の末に、やっとホテルを見つけたが、ホテルから、かなり離れた駐車場に車を止めてしまった。そこから大型のテープレコーダーを持って歩いた。このテープレコーダーは、モンタナで自分が信心をさせた人たちに、山本会長の指導を聞かせたくて購入したばかりのものだった。
大型のテープレコーダーは、女性の手には途方もなく重たかった。数メートルも歩くと腕が痛くなった。しかも、履いていたのは買ってばかりのハイヒールであった。これが足に合わず、歩くとすぐに靴擦れができた。テープレコーダーの重さと靴擦れの痛みに音をあげ、彼女は何度も立ち止まった。
時は刻々と過ぎていく。山本会長は、既にどこかに出発してしまったのではないか――そう思うと気ばかりが急くが、歩みは遅々として進まなかった。そのうちに涙が込み上げてきた。ホテルのロビーに着いた時にはハイヒールを脱いで裸足になっていた。靴擦れのできた足で、重い機械を運んで歩く苦痛は、恥も外聞も忘れるほど大きかったのである。
伸一は、婦人の持ってきたテープレコーダーを見て言った。
「ありがとう。嬉しいね。同志のことを考えてくれて。みんなのために懸命に頑張る姿ほど、尊いものはありません」
その言葉は、タエコ・グッドマンの胸を射た。彼女はハッとして、伸一の顔を見た。
「先生……」
何か言いかけたが、言葉にならなかった。しかし、彼女は、自分の心にわだかまっていた悶々とした思いが、霧が消えるように、にわかに晴れていくのを感じた。
タエコ・グッドマンが入会に踏み切った動機は、三年前に日本で母親がガンにかかり、医師から「六カ月の命」と宣告されたことであった。その苦悩のなかで、仏法の話を聞き、紹介者の指導通りに一心に信心に励んだ。そして、二カ月たって再検査を受けると、母親のガンの症状はすっかり消えていたのである。
その後、彼女は、職場で知り合ったアメリカ人と結婚し、渡米する。しかし、見知らぬ土地での生活は、日々、郷愁をつのらせた。彼女は、日本に帰れることを願って、真剣に信心に励んだ。入会するメンバーは二人、三人と増え、遂に十人を超えた。すると、彼女の心は揺らぎ始めたのである。
“もし、自分が帰国してしまったら、後に残されたメンバーの面倒は、いったい誰がみるのだろうか……”
日本に帰りたい一心で信心に励み、弘教に力を注いだことが、かえって、帰国をためらわせる結果となったのである。彼女の心は激しく揺れ動いた。それは、使命の目覚めといってよかった。
そんなさなかに、山本会長一行の訪米を知り、彼女はぜひ会長に会いたいと、一晩がかりで車を走らせて来たのだ。彼女は、「みんなのために懸命に頑張る姿ほど、尊いものはありません」という伸一の言葉を耳にした瞬間、感激とともに決意が込み上げた。
“私は、このアメリカの地で頑張ろう。私を信頼して、信心を始めた同志のために……”
人間性の光彩とは、利他の行動の輝きにある。人間は、友のため、人びとのために生きようとすることによって、初めて人間たりうるといっても過言ではない。そして、そこに、小さなエゴの殻を破り、自身の境涯を大きく広げ、磨き高めてゆく道がある。
伸一は、モンタナの地から、法を求めてやって来た婦人の、一途な求道の姿が嬉しかった。広いアメリカのここかしこに、広布の使命に生きる地涌の友が、涌出しつつあることを感じた。まさに、世界広布の時は来ていたのである。
(『新・人間革命』第1巻 錦秋の章、p.146-150)