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2006年08月 アーカイブ

2006年08月17日

世界広布へ続け

 須田 釈尊が悟りを開いたとされるブッダガヤには、私も訪れました。経文に「伽耶城を去ること遠からず」とありますが、現在のガヤー市街(インド東部のビハール州)から南方へ十キロメートルほどの所です。
 ガヤーの町の近郊で釈尊が成道したことから、後に、ここはブッダ(仏陀)のガヤー、ブッダガヤと呼ばれるようになりました。
 遠藤 菩提樹という木の名前も、釈尊の成道にちなんでつけられたものです。
(中略)
 名誉会長 私も行きました。会長になってすぐ、この「仏教発祥の地」に行った<就任の翌年の昭和36年=1961年>。そして、大聖人の仏法の「仏法西還」を誓いつつ、「三大秘宝抄」の写本や記念の石碑を埋納しました。
 斉藤 今、その誓い通り、インドはもちろん、アジアへ、世界へ、「太陽の仏法」は広まりました。釈尊の仏法がアジアに広まるのに、何百年、千年とかかっていることを考えると、後世の歴史家は“奇跡”と驚くでしょう。
 名誉会長 諸君も続いてほしい。続くべきです。ともあれ釈尊は、「人類を救う闘争」を、この地から開始した。ブッダガヤで悟りを開いた釈尊の精神闘争とは、どんなものだったのだろうか。(以下略)

(『法華経の智慧』第四巻 p.116-117)

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諸君も続いてほしい。続くべきです。
との先生の魂の叫びが、胸に迫ってきます。日常のいろんなことに流されそうになると、このご指導を、いつも思い出します。

みんなのために懸命に頑張る姿ほど

 質問に答えながら、伸一は、空港に出迎えてくれたメンバーのなかで、まだホテルに到着していない友がいることが、気になって仕方なかった。
 「まだ、来ない人がいるけど、どうしたんだろう」
 彼は話しながら、何度か、こう繰り返した。
 質問が出尽くしたころ、バタンと大きな音がして、部屋のドアが開いた。皆が一斉に振り向いた。そこには、裸足で、片手にハイヒールを持ち、もう一方の手に重そうな大型のテープレコーダーを持った、やや大柄な日系婦人が立っていた。彼女は、テープレコーダーを床に置くと、喘ぐように肩で大きく息をした。顔中に汗が噴き出していた。
 「どうしたんですか」
 伸一が尋ねると、婦人は、荒く息をしながら答えた。
 「すいません。空港からここに来る途中、皆さんの車を見失い、道に迷ってしまったもので……」
 「そうですか。ご苦労でしたね。心配していたんですよ」
 伸一は、婦人に笑顔を向けた。
 彼女の名前は、タエコ・グッドマンといった。前日、モンタナ州を車で出発して、雪のロッキー山脈を越え、早朝、ようやく空港に着いて一行を出迎えたのである。
 しかし、ホテルに向かう途中、一行の車を見失ってしまった。シアトルの地理がわからない彼女は、ホテルを探すのに、かなり時間を費やしてしまったのだ。苦心の末に、やっとホテルを見つけたが、ホテルから、かなり離れた駐車場に車を止めてしまった。そこから大型のテープレコーダーを持って歩いた。このテープレコーダーは、モンタナで自分が信心をさせた人たちに、山本会長の指導を聞かせたくて購入したばかりのものだった。
 大型のテープレコーダーは、女性の手には途方もなく重たかった。数メートルも歩くと腕が痛くなった。しかも、履いていたのは買ってばかりのハイヒールであった。これが足に合わず、歩くとすぐに靴擦れができた。テープレコーダーの重さと靴擦れの痛みに音をあげ、彼女は何度も立ち止まった。
 時は刻々と過ぎていく。山本会長は、既にどこかに出発してしまったのではないか――そう思うと気ばかりが急くが、歩みは遅々として進まなかった。そのうちに涙が込み上げてきた。ホテルのロビーに着いた時にはハイヒールを脱いで裸足になっていた。靴擦れのできた足で、重い機械を運んで歩く苦痛は、恥も外聞も忘れるほど大きかったのである。
 伸一は、婦人の持ってきたテープレコーダーを見て言った。
 「ありがとう。嬉しいね。同志のことを考えてくれて。みんなのために懸命に頑張る姿ほど、尊いものはありません」
 その言葉は、タエコ・グッドマンの胸を射た。彼女はハッとして、伸一の顔を見た。
 「先生……」
 何か言いかけたが、言葉にならなかった。しかし、彼女は、自分の心にわだかまっていた悶々とした思いが、霧が消えるように、にわかに晴れていくのを感じた。
 タエコ・グッドマンが入会に踏み切った動機は、三年前に日本で母親がガンにかかり、医師から「六カ月の命」と宣告されたことであった。その苦悩のなかで、仏法の話を聞き、紹介者の指導通りに一心に信心に励んだ。そして、二カ月たって再検査を受けると、母親のガンの症状はすっかり消えていたのである。
 その後、彼女は、職場で知り合ったアメリカ人と結婚し、渡米する。しかし、見知らぬ土地での生活は、日々、郷愁をつのらせた。彼女は、日本に帰れることを願って、真剣に信心に励んだ。入会するメンバーは二人、三人と増え、遂に十人を超えた。すると、彼女の心は揺らぎ始めたのである。
 “もし、自分が帰国してしまったら、後に残されたメンバーの面倒は、いったい誰がみるのだろうか……”
 日本に帰りたい一心で信心に励み、弘教に力を注いだことが、かえって、帰国をためらわせる結果となったのである。彼女の心は激しく揺れ動いた。それは、使命の目覚めといってよかった。
 そんなさなかに、山本会長一行の訪米を知り、彼女はぜひ会長に会いたいと、一晩がかりで車を走らせて来たのだ。彼女は、「みんなのために懸命に頑張る姿ほど、尊いものはありません」という伸一の言葉を耳にした瞬間、感激とともに決意が込み上げた。
 “私は、このアメリカの地で頑張ろう。私を信頼して、信心を始めた同志のために……”
 人間性の光彩とは、利他の行動の輝きにある。人間は、友のため、人びとのために生きようとすることによって、初めて人間たりうるといっても過言ではない。そして、そこに、小さなエゴの殻を破り、自身の境涯を大きく広げ、磨き高めてゆく道がある。
 伸一は、モンタナの地から、法を求めてやって来た婦人の、一途な求道の姿が嬉しかった。広いアメリカのここかしこに、広布の使命に生きる地涌の友が、涌出しつつあることを感じた。まさに、世界広布の時は来ていたのである。

(『新・人間革命』第1巻 錦秋の章、p.146-150)

先駆者というのは

 市内をタクシーで走っている時、同乗していた川崎鋭治が、伸一に尋ねた。
 「私は、ヨーロッパの連絡責任者に任命されましたが、これから、何を、どのように進めていけばよいのでしょうか」
 川崎は、強い決意に燃えてはいたが、実際に何をすればよいのかがわからず、この二、三日、考え悩んでいたのである。
 伸一は、しばらく黙っていた。彼は、川崎の気持ちがよくわかっていたし、また、いくらでも、アドバイスすることはできた。しかし、具体的なことには触れずに、こう語った。
 「川崎さん。先駆者というのは辛いものだよ。すべて自分で考え、次々と手を打っていかなくてはならない。誰も頼りにすることはできない。しかし、だからこそやりがいもあるし、功徳も大きい……」
 川崎が今後、名実ともにヨーロッパの中心者になっていくためには、彼が自ら未来の構想を描き、それに向かって、自分のなすべきことを考え、行動していくことが必要であると、伸一は思ったのである。
 つまり、伸一は、リーダーとしての川崎の自発性、主体性を育みたかった。
 広宣流布は、友の幸福と平和の実現を、わが使命として自覚した人が、情熱と英知で織り成す、人間の賛歌の絵巻である。
 自分を深め、磨き、信心の在り方を学ぶうえでは、謙虚に指導を求め、求道の心を燃やしていくことは当然である。また、活動を進めるうえで、協議や意見の調整が重要であることはいうまでもない。しかし、広宣流布の活動の根本をなすものは、どこまでも個人の内発的な自覚である。具体的な方法は、その責任感から発する知恵をもって考え、対応していくべきであるというのが、伸一の信念であった。
 川崎は釈然としない顔をしていた。それを見て取ると、伸一は言った。
 「ともかく御本尊に真剣に祈り、今いる同志を激励しながら、何をすべきかは考えていけばよい。そう堅苦しく考えることはないよ。これからは、日本のメンバーも、どんどん世界に出ていくだろうから、ヨーロッパも、すぐに五十世帯や六十世帯にはなるだろう」
 その言葉を聞いても、川崎には実感はわいてこなかった。
 川崎が会ったヨーロッパのメンバーは、まだ、三人にすぎない。それがすぐに五十世帯以上になるとは、とうてい思えなかったのである。
 ただ、自分が考えている以上に、広宣流布の伸展は早いのかもしれないと思った。また、そうするためにも、自分が立ち上がらなければならないと感じた。

新・人間革命 第5巻「歓喜」の章 p.92-94

願兼於業

遠藤 先日、広島の張福順さんの体験をうかがい、大変に感動しました。張さんは、在日韓国人で、被爆された女性です。差別の苦しみ、被爆の苦しみを乗り越えて、今、平和の語り部として活躍されています。
 張さんは、日本へ移住してきた両親の間に、大阪で生まれました。一家は韓国で手広く農業を営んでおられたのですが、軍国・日本に侵略され、植民地政策によって土地を奪われてしまったのです。やむなく日本へ来ざるを得ませんでした。「日本に行けば素晴らしい生活が待っている」との宣伝文句が頼りでした。しかし、危険な工事現場を転々とさせられ、行き着いた所は、山奥の小さな村。養蚕所の一角をムシロで区切っただけの小屋に入れられ、小作人の下働きとして働かされました。
 しかも、割り当てられたのは、沼地のような田んぼでした。満足な収穫などあるはずがありません。僅かな配給と、草や木の実で飢えをしのいだそうです。
 須田 ひどいですね。当時、たくさんの韓国・朝鮮の人々が、そうやって日本にだまされた。
 遠藤 広島に移住して一年後の昭和二十年(一九四五年)八月六日、「新型爆弾によって広島が全滅した」との噂が流れます。
 張さんは、お母さんと一緒に親類・同胞の安否を気遣って、被爆直後の広島市内へ行きました。その時、二次被爆をしてしまったのです。十二歳の時でした。やっと会えた叔母とその息子は、ひどい火傷で、手の施しようがありません。
 叔母が「医者や薬が足らんけえ、朝鮮人までは手が回らんげな。このまま死を待つだけじゃー」と言うと、お母さんは「アイゴー(哀号)!」と悲鳴をあげました。
 「アイゴー(哀号)! 国を取られ、日本まで連れてこられ、牛馬のようにこき使い、ひと思いに殺さず、何の罪あってこうやって、半殺しにして苦しめるのか! 生きるも死ぬも差別するのか!」。こぶしで地面をたたきながら慟哭する母の姿を、張さんは今も忘れることはできないと言われます。

2006年08月28日

信心をして生まれてきた子供に、使命のない人はいない

 チャベスの移住地に行く清原かつをはじめとする五人は、アルゼンチンのブエノスアイレスから、空路、四時間あまりを費やし、ポサダスの空港に着いた。
 ポサダスは、まだアルゼンチンで、ここからパラナ川を渡ると、パラグアイになる。
 支部長の宮地進七をはじめ、十人ほどのパラグアイのメンバーが、ポサダスの空港まで迎えに来てくれていた。
 メンバーのなかには、ブラジル国境のイグアス移住地から、数百キロの道のりを四日がかりで駆けつけた、谷川郁夫という班長もいた。
 一行は、メンバーの求道の息吹に、心洗われる思いがした。
 空港からは、車で船着き場に行き、二十分ほどランチに乗って対岸に着いた。パラグアイのエンカルナシオンである。
 ここで打ち合わせを行った。その時、一人の青年が清原に言った。
 「お願いがあります。実は、六十キロほど先のピラポという移住地に、四十世帯ほどのメンバーがおります。その人たちは、今夜の宮地支部長宅での指導会に、トラックで来ることになっていましたが、大雨だったために、車がスリップしてしまうので、出発できないでいます。ジープなら行けると思いますので、どなたか、行ってもらえないでしょうか」
 すぐに、春木征一郎の妻で副婦人部長の春木文子と、男子部の幹部が行くことになった。
 午後三時ごろ、清原たちはマイクロバスでチャベスへ、春木文子らはジープでピラポへ出発した。
 清原の乗ったマイクロバスは、ぬかるんだ道に車輪をとられ、何度もスリップした。途中、皆で車を押すこともあった。
 チャベスの宮地支部長の家に着いたのは、夕刻であった。
 辺りには、農地と森が広がり、ところどころに小屋のような家が立っていた。
 清原は、ここにも同志がいて、懸命に学会活動に励んでいることに、不思議な思いがしてならなかった。
 “これが御書に仰せの「地涌の義」なんだ。まさに、世界広布の時は来ているんだ”
 一方、ジープでピラポ移住地に向かった春木文子たちは、ぬかるみの道をひた走った。
 それでも、あまりスピードを出すことができず、到着したのは、午後九時過ぎであった。
 ところが、ピラポのメンバーは、幹部が来てくれるようになったとは知らずに、危険を覚悟でチャベスの宮地の家に出発してしまったのである。
 春木たちは、急いで引き返したが、チャベスに着いたのは、午前一時を回っていた。
 宮地の家では、午後七時半から指導会が開かれた。会場は、百人を超す参加者でいっぱいであった。ランプの明かりに照らされての指導会である。
 ここでは、メンバーから質問を受けた。
 どの質問にも、苦悩と心の葛藤が滲み出ていた。
 農業が軌道に乗らず、かさむ借金に苦しみながら、なんとか活路を見いだそうと、必死な人もいた。病の苦しみを、悲鳴にも似た思いで語る人もいた。
 清原たちは、懸命に御本尊の功力を、信心の大確信を訴えた。確信と揺らぐ心との真剣勝負であった。
 三歳ぐらいの男の子を抱えた老婦人が尋ねた。
 「この子は孫ですが、生まれつき目が見えないんです。信心を頑張れば、この子の目も、見えるようになりますか」
 老婦人の一家は、移住地の人たちに、仏法のすばらしさを訴え、布教に励んできた。ところが、目の不自由な子どもが生まれたことから、「なんで学会員が、そんなことになるんだ」と、批判を浴びせられていたのである。
 家族は、針の筵(むしろ)に座るような、いたたまれぬ気持ちで日々を過ごしてきた。
 もとより、近くには大病院もなく、診察してもらうこともできない。悲嘆に暮れ果てての質問であった。
 皆、黙り込んで、清原の言葉を待った。
 彼女は断言した。
 「明確なことが一つだけあります。それは、強盛に信心を貫いていくならば、絶対に、幸福になれるということです。このお子さんが、生涯、信心を貫けるように、育ててください。信心をして生まれてきた子供に、使命のない人はいません。その使命を自覚するならば、必ず最高の人生を送ることができます」
 この指導が、世間に引け目を感じ、信心に一抹の不安をいだいていた、この家族の心の闇を、打ち破ったのである。
 清原に指導を受けてからというもの、老婦人は、目の不自由な孫が、家の宝だと思えるようになった。そして、家族も、その子どもの幸せを願い、真剣に信心に励み、団結が生まれていったのである
 また、ある壮年は、懇願するように言った。
 「山本先生は、パラグアイにも来てくださるだろうか……」
 「祈り抜いていくなら、必ず、先生は来てくださいます。また、皆さんの思いを、すぐに先生にお伝えします。先生をお呼びすることを目標に、頑張ろうではありませんか」
 質問は深夜まで続いた。その夜は、チャベス以外の移住地から来たメンバーは、宮地の家や近くの同志の家に分宿した。
 翌朝、皆で勤行したあと、個人指導の時間がもたれ、次いで、教学試験が行われた。
 派遣された幹部が感動したのは、大白蓮華や聖教新聞が一、二部しかないために、掲載された御書の講義などを、皆がノートに写し、研鑽していたことであった。
 しかも、そうした悪条件であるにもかかわらず、皆、実によく勉強しているのである。
 派遣幹部たちは、いかなる環境条件であろうが、求道の心があれば、教学を研鑽することはできるのだとの実感を深くした。
 清原たちがチャベスを後にしたのは、三月六日の午後四時過ぎであった。
 木々の生い茂る道を、マイクロバスに揺られながら派遣幹部たちは思った。
 “もし、自分たちがこの環境のなかに、ただ一人置かれたならば、本当に信心を貫けていただろうか。皆に指導はしてきたが、学ぶべきは自分たちの方ではないのか……”
 信心とは、立場や役職で決まるものではない。広宣流布のために、いかなる戦いを起こし、実際に何を成し遂げてきたかである。
 また、世界のいずこであろうと、今、自分のいる場所が、広宣流布の戦場であり、最高の仏道修行の道場であり、同時に、そこが常寂光土となるのである。
 メンバーと山本伸一の念願が成就し、彼のパラグアイ訪問が実現するのは、一九九三年(平成五年)のことである。
 それは名画のような、永遠に輝く、感動的な出会いとなった。
 この訪問で、伸一は大統領、外相らと会見。そして、パラグアイ政府から、彼の世界平和への貢献を讃え、「国家功労大十字勲章」が贈られたのである。

新・人間革命 第11巻「開墾」の章 p.176-182

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